銅屋根クロニクル

No.112

山裾の横穴から金銅の像が出た 穴八幡宮(東京)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

穴八幡宮(あなはちまんぐう、旧称・高田八幡宮)は、東京都新宿区西早稲田、早稲田通りと諏訪通りの合流点に鎮座する。メトロの早稲田駅から地上に出れば、正面に赤い一の鳥居が見える。主祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。創建は康平5年(1062)。蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運といった御利益があるという。

社伝によれば、康平5年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の際、日本武尊命(やまとたけるのみこと)の例に倣ってこの地に兜と太刀をおさめるとともに、東北鎮護の社とするため、八幡宮を勧請した。そのため一帯は八幡山と呼ばれていた。

「穴八幡宮」の名のもとになった「穴」は、寛永18年(1641)に見つかった。宮守の庵を造るため、良晶という僧が山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた、というものだ。これを聞いた3代将軍徳川家光は、穴八幡宮を幕府の祈願所とし城北の総鎮護とした。その後、歴代の将軍が崇敬し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。以来、流鏑馬は世嗣の誕生や厄除け祈願として奉納されている。

またもう一つの有名な御利益である蟲封じの方は、江戸の庶民からも信仰を集め、明治12年(879年)には皇太子(後の大正天皇)の蟲封じ祈祷も行っている。また冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる。

幕府による手厚い造営・営繕だけでなく、大名旗本からの寄進もあり、江戸屈指の大社となってゆく。特に最盛期は、元禄十六年(1703)の造営後であり、江戸権現造の社殿として壮麗な姿を見せつけた。

 
 

拝殿から見た随神門

しかし、安政元年(1854)の大火で類焼し、幕府より造営料が奉納され、再興に努めたものの、幕末の混乱のため、仮社殿のまま明治維新を迎えた。維新以降は、神仏分離令により、資源であった土地屋敷、御旅所、門前町屋、境内山林等の全てを失い衰退した。

そして平成元年より始まった境内整備工事で、昭和20(1945)年5月の空襲によって焼失した江戸期の壮麗な社殿の再建を、寛永時代の江戸名所図絵に基づいて行った。

鼓楼:中には太鼓が収められており、例大祭と大晦日に叩かれる。

手水舎と、布袋像の水鉢。

まず嘉永2(1849)年、初代清水喜助により竣工した高田八幡宮(現・穴八幡宮)随神門については、神社に清水喜助が起こした立面図などが残っており、平成元年から始まった境内全域の整備計画の一環として整備された。

清水建設によれば、隨神門、出現殿に引続き行われた「鼓楼新築工事」では、現存する資料、神社所有の宝永元(1704)年に描かれた立面図1枚、初代清水喜助が描いた立面図1枚、そして、戦前に撮影されたモノクロ写真数枚を最大限に尊重し、現代人にも共感と感銘を与えられる造形意匠を目指した。軒廻りの、総反り、反出し勾配といった日本固有の高度な大工技術である「規矩術」をCADで再現し、事前に実物大の実験を行ったという。

北参道の青銅鋳物製大鳥居は2020年8月完成。
  サイズは両翼11.5m、高さ9mで総重量は約15t。青銅鋳物製の一体鳥居としては日本で2番目の大きさ。足元には北参道にふさわしく左右一対キトラ玄武の銅像が鬼門を守る。

ページトップへ戻る