No.109
(1/1) ルーフネット 森田喜晴
京都東山、音羽山の水を集めた音羽川の流れは、清水寺奥の院の断崖へ引かれ、三つの滝口から寺の舞台下へ落ちる。これが中世から歌に詠まれた音羽の滝だ。
寺名の由来どおり清らかな水は四季を通じて枯れることなく、滝にうたれ祈願する人も多い。1000年以上もの間湧き続けている水で、「日本10大名水」にも選ばれ、3つに分かれて落ちている滝はそれぞれ、恋愛・学業・健康の御利益があるという。しかし御利益がなくなるので3種混合はNOだ。一点に絞らねばならない。
音羽山清水寺。北法相宗の本山。西国観音霊場三十三カ所第16番札所。宝亀9年(778)延鎮上人が開山、延暦17年(798)坂上田村麻呂が創建したと伝わる。音羽山の中腹に約30の堂宇が並ぶ。現在の国宝本堂をはじめ主な堂塔は、寛永6年(1629)の大火災で焼失し、寛永10年(1633)徳川家光が再建したもの。
「清水の舞台」で知られる本堂(国宝)は寄せ棟造り、檜皮葺、寝殿造り風の巨大かつ優美な屋根に覆われた建築で、十一面千手観音立像を祀る。拝殿の前空間がこの舞台である。
舞台に立てば下方に音羽の滝、谷を隔てて子安の塔(重文)の朱がくっきり浮かび、重文指定の建造物が連なる。平成6年(1994)12月に「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。

創建当初、現在のような大きな舞台はなかったのだが、あふれる参拝者をさばききれず、さりとて本堂は、山腹にへばりつくように立っていた。そこで切り立った崖に12メートルの柱を立て、「舞台」と呼ばれるせり出し部分を設けた。それを139本のケヤキの柱が支えている。釘はいっさい使われていない。その結果4階建てビルに相当する舞台が出来上がった。この舞台も国宝である。
本堂は坂上田村麻呂が長岡京の紫宸殿を移築したものとされる。寝殿造風の建物を中心とし、前方左右に翼廊を出し、その間は板張りの舞台となっている。本尊の十一面千手千眼観音立像は国宝。秘仏とし厨子内に納められた。

左手が本堂。軒樋は、正面に見える東翼廊の軒樋に連なる。

本堂の屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。本堂正面にあたる南面は、1間幅の庇を持ち、その東西端にそれぞれ翼廊(楽舎)を設け、両翼廊の間が舞台となる。
本堂の大きな屋根、翼廊の檜皮葺き屋根に降る雨が舞台めがけて流れ落ちるわけだが、それを防ぐのが巨大な軒樋。1ミリの銅板で幅330ミリ、高さ150ミリの巨大な樋が据えられた。内側は防食のためステンレスが貼られている。
約50年ぶりとなる屋根の葺き替え工事では、江戸時代の記録に残る通常の檜皮よりも長い檜皮を主に使用、屋根を本来の姿に戻すとともに耐久性向上も期待されている。檜皮の確保には8年前から取り組んできたそうだ。
本堂を背にすると、舞台.高欄を支える泥台が5基 中央小さく赤い3重の塔が「子安の塔」清水寺の本堂から錦雲渓をへだてた丘の上にある。総丹塗り、檜皮葺の三重塔(重要文化財)で室町時代後期の再建。清水寺の塔頭で泰産寺という寺名をもつ。塔前からの清水寺全景の眺望は素晴らしく、東山の光景になくてはならない塔でもある。
観光地にも人が帰ってきて、京都の名所清水寺は、朝6時の開門前から外国人観光客がチラほら。7時前には修学旅行グループが次々と清水の舞台に登場する。清水寺の参拝者は初詣で30万人、年間
約500万人と言われる。ほとんどが舞台の先端で下をのぞき込む。そのうちの1%が泥台に乗ってのぞき込むとすると、年間5万人に踏まれるわけだ。舞台は修学旅行のメッカであるから踏まれる率はさらに高いだろう。「泥台がボロボロになるから、銅板を貼ってほしい」というのもうなずける。
そんな寺の要望に合わせて、1ミリ厚の銅板が貼られた。京都の国宝建築の銅屋根工事を手掛ける職人は、「50年間この仕事をしているが、泥台に銅板を貼ったのも、こんな大きな樋を付けたのも初めて」という。
さらに、巨大な樋を受ける鉄製の受けの長さは2.5mにもなる。これも見どころの一つである。

泥台(どろだい)。今回の記事では、主役である樋に対して、脇役の泥台。舞台先の高欄を支える泥台とは、屋台や神輿を置く際の台を指すことも多い。