No.26

雪を頂く富士に例えられる鉛屋根
金沢城(石川県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

加賀百万石、前田家の居城である金沢城の屋根は日本にただ2事例という材料で葺かれている。それは鉛瓦。金沢城の正門にあたる石川門は昭和25年(1950)に重文に指定されている。前田利家によって慶長4年(1599)築城された金沢城の建物は何度も火災にあい焼失したが、石川門と三十軒長屋が江戸時代の姿をとどめている。石川門の普請が完了したのは天明8年(1788)、三十軒長屋は安政5年(1858)である。三十軒長屋は昭和32年(1957)に、鶴丸倉庫は平成19年に重文指定された。また金沢城の屋根が鉛瓦に葺き替えられたのは寛文5年(1665)5代藩主前田綱紀の時代である。

菱櫓(やぐら)、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪門、鶴の丸土塀が、文化6年(1809)に再建された形に次々復元された。屋根はすべて鉛瓦葺きである。屋根に葺いた鉛の板の厚さは1.9ミリ。石川門の軒先と唐草には前田家の家紋である梅鉢紋が施されている。

創建以来、何度となく火事に見舞われた後、生き残った建物は明治維新を迎える。今度は金沢城は兵部省(後の陸軍省)の管轄となり、大半の建物を失う。昭和24年(1945)には金沢大学の建物が城に置かれた。平成7年(1995) に金沢大学が移転したことから復元工事が本格的に始まった2001(平成13)年には菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、2011(平成23)年には河北門、2015(平成27)年には橋爪門と玉泉院丸庭園が復元。かつての威容を少しづつ取り戻している。

いぶし銀の鉛瓦は、漆喰、なまこ壁と絶妙のマッチングを見せるが、雨で濡れた表情は一変する。モノトーンなだけに濡れた緑青銅板より、ある意味艶めかしい。

石川門

石川門の破風

石川門の鳥やすみにとまったカラスがむかえてくれた。

前田家の家紋である梅鉢紋

屋根に葺いた鉛の板

鉛色の空に鉛の屋根

鉛色の空に鉛の屋根。晴天下の白い屋根の美しさは雪をいただく富士に例えられたが、雨で濡れたぬめっとした質感もたまらない。

鉛瓦葺き手順の展示

鉛瓦葺き手順の展示

敷地内から出土した鉛瓦

屋根の構造模型が内外に展示されている。

鉛瓦棒・鉛平葺・梅鉢

金沢城内に鉛瓦葺きの手順が解りやすく展示されている。鉛は融点が327度、銅は1085度である。銅に比べ鉛は柔らかく加工がしやすく、凍結にも強い。なぜ屋根に鉛瓦なのかについては

  • 1.屋根の荷重を軽減させるため。
  • 2.経年変化でいぶし銀色に変化するという美観的な理由
  • 3.凍害による割れがない。
  • 4.加賀藩が鉛を大量に所有していた。
  • 5.戦の際には溶かして鉄砲の弾にできるため、有事への備え。

と、諸説あるが、決定的な理由は不明である

金沢城の鉛瓦に関する様々な説や出土品、文献調査の結果が、愛知県埋蔵文化財センターの研究紀要第15号(2014.3)、小沢一弘・堀木真美子氏に

よって「鉛瓦小稿~ 金沢城の鉛瓦~」として報告されている。報告書の中で、梅鉢紋が施された軒丸瓦を分析した結果、鉛の純度はほぼ100%だったという。

さらに、陶瓦より手間もかかり高価な鉛瓦を造った理由として、軽量で凍害に強く、美しいというほかに、「貨幣鋳造用の鉛が大量にあったため、鉄砲の弾にするのでは、という疑念を幕府に持たせないことこそ重要、と考えたのでは」と述べている。

また、鉛瓦を見たことのない前田綱紀がなぜ鉛瓦葺きにしたのか?一時徳川専用品の様相を呈した鉛瓦葺きが、ある時銅瓦に代わり、鉛瓦は姿を消す。

そして半世紀後に突然金沢城の屋根に葺かれたのはなぜ? そんな謎解きの楽しみを提供してくれる12ページの報告書である。