銅屋根クロニクル

No.40

旧水戸城 唯一の生き残り 薬医門(茨城県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

旧水戸城の現存する唯一の建造物である薬医門。茨城県指定有形文化財第66号。昭和58年3月18日指定。威厳のある量感たっぷりの城門である。昭和56年、移築の際、屋根を元の茅葺き屋根の形に戻し、銅板葺きとした。茨城県教育委員会の解説によると、建立の時期は構造や, 技法から見て、安土・桃山時代。1591~1602年に創建され、徳川氏に引き継がれたものであろうと推定している。

水戸城は現在の水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。歴史的には、建久四年(1193)、地頭馬場資幹(ばばすけもと)が源頼朝からこの地を賜ったのに始まる。昭和20年の空襲で、唯一残っていた三階櫓(さんかいろ)なども焼失、現在は空堀と土塁の一部と、復元された橋詰門が名残をとどめている。

慶長十四年(1609)以降は、徳川頼房(家康の十一子)が城主となり、この後、徳川氏は江戸常府でありながら、光圀(2代)以後260年間水戸35万石を治めた。明治四年(1871)の廃城時には二の丸には三階櫓があった。

黄門様一行の右奥の緑が水戸城址。

黄門様一行の右奥の緑が水戸城址。

北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。城郭には石垣がなく、土塁と空堀で構成されていた。徳川御三家の居城でありながら質素で、防衛上の拠点と言うより行政の庁としての性格が強かったようである。水戸徳川家が参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため水戸城は藩主の居城としての役割を担っていなかったのである。そのため天守はなかった。もっとも大きかった三階櫓でも、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っていた。下部を石垣の代わりに海鼠壁で覆い、石垣の上に3重の櫓が建っているかのように見せていたのである。

旧水戸城 薬医門 (茨城県)

旧水戸城 薬医門 (茨城県)

薬医門

巨大な板蟇股(いたかえるまた)に支えられた屋根の棟が柱の中央から大きく右にずれている。左が正面で、深い軒を支える。

水戸市が一枚瓦城主を募集している。「水戸城大手門等の復元整備寄付金で「一枚瓦城主」になりませんか。平瓦、丸瓦に、自分で名前を書く。その瓦が復元建造物の屋根に葺かれる。自分や家族の名前を未来に残しませんか?」というものだ。募集期間は来年平成30年3月30日まで。

3000円縁で水戸城(瓦) 城主に。

本丸空堀に敷設されたJR水郡線の軌道。橋の下は引き込み線もあり、レール好きにはたまらない景観だ。

目標額1億円に対して現在(平成29年3月末)6,700万円の寄付が3000人から寄せられている。鬼瓦や丸瓦などはすでに完売。平瓦のみ受け付け中だ。4月に入って、いよいよ工事が始まる。来年夏頃には、寄付された瓦への記名会が行われる予定。

さて、唯一の旧水戸城生き残りである、薬医門は正面の柱の間が三つ、出入り口が中央だけの三軒一戸(さんげんいっこ)といわれる形式。

「薬医門」とは、門の建築様式の呼び名で、扉を支えている本柱とその後ろにある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面を見るとずれていることがよくわかる。前の2本の本柱が屋根の荷重を多く受ける。正面から見ると軒が深いため、門はゆったりと威厳がある。

軒付の平葺きは13段で割り付けられている。本「銅屋根クロニクル」コーナーで紹介してきた中ではこれまで、熱田神宮拝殿が9段と最も厚かったが、それを凌いでいる。

もっとも直線的な神明造の屋根と、地域色の濃い薬医門の茅葺き屋根を比較するわけにはいかない。

木割(きわり・各部の木材の大きさの比率)は極めて太く、雄大な蟇股、反り増しや実肘木、質素にして豪壮な「見せる構造」とバランスをとるには、このくらい厚みのある屋根でなければ敵わないだろう。

旧水戸城 薬医門 (茨城県)

当然のことながら、茅葺き屋根は全体のフォルム、細部の納まり、厚み、素材は地域や時代によって大きく異なる。茅が豊富な地域の屋根は厚いであろうし、バランス上厚くなることもある。社寺の屋根に詳しい板金職によれば、一般に平葺きの際の板の幅は1寸から最大で2寸。大きければ作業は楽だが、細部の納まりや曲線の再現は難しいという。軒付を何段で割り付け、滑らかに仕上げるかは、技能と感性とそろばん次第、ということだろう。

県教育委員会では、この城門が元来どこにあったのか、という点に関して「諸説あるが、風格から見て橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されていたが、城門にふさわしい旧本丸の入り口に近いこの場所に移築、復元した」その際、部分補修するとともに、切妻の屋根をもとの茅葺きにかえて銅板葺きとした」としている。

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