No.48

再建された日本最大規模のカトリック教会
浦上天主堂(長崎県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

カトリック浦上教会(旧称・浦上天主堂)は長崎市にあるカトリック教会とその聖堂。聖堂は、「うらかみてんしゅどう」の名で知られており、長崎市の観光名所のひとつである。

昭和20年(1945)に長崎への原爆投下によって破壊されたが、昭和34年(1959)に再建された。昭和37年(1962)以降は、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂に。現在、所属信徒数は約8,500人。建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会となった。

現在の天主堂は、原爆被災前の天主堂をモデルに、昭和34年(1959)11月、㈱鉄川工務店の設計施工で再建された。床面積は1,179㎡。鉄骨コンクリート造。鐘楼のドームをはじめ、すべての屋根は銅板葺きだ。

天主堂の記録によると、浦上は戦国時代からキリシタンの村であった。後に徳川幕府によるキリシタン弾圧が始まり、明治元年(1868)浦上村民総流配に及ぶ。キリシタン弾圧が停止され、信徒が村に戻ったのは明治6年(1873)である。明治13年、旧庄屋屋敷を買い取り仮の天主堂とした。そして念願の天主堂の建設にかかったのが明治28年。主任司祭であったフランス人宣教師フレノーが設計し、監督した。石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式の計画で、東洋一の聖堂を目指し、信徒たちは献金のほか材料運搬などの労働奉仕も行ったという。

1911年(明治44年)、過労で倒れたフレノー神父に代わって、後任のベルギー人のラゲ神父が代わって工事を進める。このとき早期完成を目指し、屋根を木造瓦葺きに変更し、1914年(大正3年)3月17日、東洋一の大天主堂が完成した。完成までに19年の年月を要したことになる。さらに11年後の1925年(大正14年)双塔の鐘楼が完成し2個の聖鐘がつるされた。

しかし、昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、長崎の浦上上空で原子爆弾が炸裂、爆心地から500mの至近距離にあった浦上天主堂は全壊した。信徒も約12,000人のうちの5分の3ほどに当たる約8500人が犠牲になったといわれる。被爆後は、広島の原爆ドーム同様、保存が検討されたが、破壊が激しく断念、再建された。

失われた名建築

被爆前の浦上天主堂の壁面には84体の天使像、33体の獅子、14体の聖人像が壁に取り付けられていた。原爆によってその大部分が消滅し、高さ25メートルの塔の一部が残った。かつての天守堂の写真を屋根の研究者に見せると、「大聖堂の屋根は瓦だろう。 鐘楼も板金屋根の納まりではなく平板瓦の様に見える」という。被爆前の建物は荘厳で壁の化粧も繊細だ。おのおのの屋根の仕舞い、形状が上品で十字架台座にまで化粧が行き届いている。「失われた名建築」と称されるのも納得だ。