銅屋根クロニクル

No.64

かつて120の堂宇が並び、3000人の学僧が学んだ大寺院
増上寺(東京都)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する徳川家の菩提寺である。
JR浜松町駅新橋寄りの北口改札を出て、左に曲がる。西に少し歩けば大門交差点、地下鉄大門駅だ。そのまま突っ切って、ゆっくり5分も歩けば、増上寺の山門「三解脱門」に突き当たる。その途中でくぐるのが、大門だ。この地名や駅名としても使われている「大門」は、増上寺の旧総門のことを指す。

大門は、増上寺が明治維新で寺領が奪われ、東京府の所有となっていた。それが返還されるきっかけになったのは東日本大震災である。瓦の一部が落下して安全性に不安が示されたこともあって、2011年に地元の「大門振興会」から増上寺に対し大門の塗り替えの依頼がなされたことから返還の機運が一気に高まった。 2016年東京都から増上寺に返還された。

明治7年(1874年)1月1日、排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟や五重塔をはじめとした遺構を焼失、大きな被害を受けた。
現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って改築したコンクリート造のものである。

増上寺(東京都)

重要文化財・三解脱門(さんげだつもん)は第二次世界大戦の戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三つの煩悩、(貪、瞋、癡)から解脱できるといわれる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

三解脱門

三解脱門。屋根は本瓦葺きに銅板の棟包み。塗根部分はかなり劣化が進んでいるようだ。

大殿のシビと東京タワー

大殿のシビと東京タワー

安国殿

安国殿

熊野三所(ゆやさんしょ)大権現宮

境内に立てられた増上寺の鎮守中最大の熊野三所(ゆやさんしょ)大権現宮

鰹木

水盤舎

水盤舎

台徳院惣門

台徳院惣門

三門とは三解脱門の略で、3つの煩悩―貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろか)―を解脱する門とされる。間口10間4尺5寸(19.5m)奥行5間(9m)高7丈(21m)。

大殿(だいでん)

大殿と呼ばれる本殿は- 昭和49年(1974年)の再建で、室町期の阿弥陀如来像がまつられている。

安国殿

徳川家康が崇拝した約80cmの金色の立像で、長年の香煙により、黒ずんでしまったため黒本尊と称され、室町時代の恵心僧都作と伝わる秘仏の阿弥陀如来を祀っている。正月15日、5月15日、9月15日にのみ開帳され、「黒本尊」と墨書きされた限定版の朱印が授与される。戦後復興の境内堂宇整備のため、仮本殿となっていたこともある。平成23年に建て替えられた。

水盤舎(すいばんしゃ)

三代将軍家光の三男の霊廟にあったもの。明治の解体・昭和の空襲を逃れ、移築された。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構とされる。

台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)

台徳院霊廟は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営された。
壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群で1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失した。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。

現存の惣門は -芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建つ。建立当初は現在地より西寄りにあり、奇跡的に戦火を免れ、1959年に45メートル東方へ曳家された。入母屋造八脚門で、門内の金剛力士(仁王)像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったもので1958年頃に現在の惣門に移された。屋根は銅板の重ね葺きで葺き替えられ、徳川流に黒漆が塗られている。
17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇が並び立つ大寺院であった。

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