銅屋根クロニクル

No.85

鹿児島の総氏神様 祭神は島津斉彬
照国神社(鹿児島県)

(1/1) ルーフネット 森田喜晴

照国神社(てるくにじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市の中心部、照国町にある神社。入口にある高さ19.8mの大鳥居の向こう天文館に建ち並ぶビル群が見えて、なかなか印象的な景観である。旧社格は別格官幣社。創建は文久2年(1862)。本殿の様式はRC造一間社流造、屋根は銅板葺き、江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

令和3年2月1日現在の鹿児島市の人口は59万3,808人。2020年三が日の参拝数が約35万人、地元紙のランキングでは、霧島神宮を抑えて1位とするものもある。 人気の理由は、島津家28代当主斉彬だろう。渡辺謙が2018年大河ドラマ「西郷どん」で島津斉彬を演じたことも影響がありそうだ。いずれにしても鹿児島の総氏神様と崇敬される神社であり、パワースポットとしても人気である。

照国神社の背面は城山。標高107mの小高い山で、西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在する。またクスの大木やシダ・サンゴ樹など約600種の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫で、展望台からは桜島をはじめ錦江湾や鹿児島市街地を一望できる。夜景が美しいことでも有名で、昭和6年に国の天然記念物及び史跡の指定を受けている。

照国神社(鹿児島県)

祭神は島津家28代当主斉彬で、文久3年(1863)、天皇から照国大明神の神号が授けられ、翌年の元治元年(1864)、東照宮が建っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した。徳川幕府と薩摩藩のパワーバランスの変化が読みとれる。

明治10年(1877)、西南戦争で社殿、宝物を

焼失、明治15年(1882)に復興されたが、昭和20年(1945)戦災で再び焼失し昭和33年(1958)RCで、復興造営された。屋根はすべて銅板葺きになっている。入口の鳥居は昭和4年(1929)の建設、頑丈な造りで、第二次世界大戦の際、鹿児島大空襲により神社の社殿は焼失する中、この鳥居だけが残った。

(1958)RCで、復興造営された。

屋根はすべて銅板葺きになっている。

外削ぎ(そとそぎ)の千木(ちぎ)と4本の鰹木

外削ぎ(そとそぎ)の千木(ちぎ)と4本の鰹木。
 千木の形は、先端が外削ぎ(先端が地面に対して垂直)になっているものと、内削ぎ(水平)がある。一般には、外削ぎは祭神が男神であり、内削ぎが女神と言われる。鰹木の数は、平安時代には、大社が8本、中社が6本、小社が4本だったというが、現在では神社によりさまざま 。また数が奇数なら男神、偶数なら女神を祀るという説があるが、定かではない。

鳥居の手前の斉鶴(さいかく)と名付けられた樹齢200年近いイヌマキの木。

鳥居の手前の斉鶴(さいかく)と名付けられた樹齢200年近いイヌマキの木。一般公募で名づけられたもので、「斉」は祭神斉彬の一字を取り、「鶴」は等しく均衡にという思いが込められている。羽ばたく鶴の姿に見えることも理由の一つか。

回廊の先に見えるのは斉彬の像。

回廊の先に見えるのは斉彬の像。

末社の保食神社

末社の保食神社より。

本殿裏側

本殿裏側

勝海舟をして「幕末第一等の英主」といわしめた島津斉彬は、西郷隆盛、大久保利通を登用し、幕末日本を開国の方向に導いた人物とされる。集成館と呼ばれる工場群を整備し、造船にも力を注ぎ、わが国最初の洋式帆船「いろは丸」や蒸気船を完成させた。国旗日の丸を発案したのも斉彬で、当時の藩主としては珍しく薩摩ではなく日本という単位でものを考えられた人物、と評価される。

アクセス:JR鹿児島中央駅からバスで10分
住  所:鹿児島県鹿児島市照国町19-35

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