銅屋根クロニクル

No.1

すべての瓦を下ろした正倉院正倉

(5/5) ルーフネット 森田喜晴

終わりに

銅板が日本において屋根材として使われたのは奈良の西大寺(765年)が始まり(㈳日本銅センター銅版葺屋根編集委員会編「銅板葺屋根―社寺建築を中心にー」より)とされています。

正倉の根太の鼻先にまかれた銅板は創建時にはなかったものですが、今や正倉の意匠上、重要な役割を果たしています。今回の100年ぶりの大改修工事で瓦がすべて下され、今まで見えなかった正倉の各所で銅板の使用が確認されました。もちろん創建当時のものではなく、早いものでも元禄時代、棟覆いや丸環は100年前の大正大改修の時代と思われます。

校木の隙間のベローズシールのような小さな銅板は恐らく、大正時代以降でしょうが、その時期を特定できる記録はありません。正倉院など国宝や重文に限らず「文化材修理の基本は、創建時の状態を尊重し、新たな改変は極力避ける」という考え方です。今回の修理においても再利用可能な瓦は葺きなおされます。割れて使えない瓦も多く、今回は半数以上が新たに製作されます。そのとき参考にするのは創建時である天平時代の瓦です。

文化財の補修で難しいのは、「創建時の状態に」といってもそれがどんな状態であったのか特定しにくいからです。まして日本は石ではなく木の建築文化です。火災を免れることはまずありません。数百年、時には千年の間に手が入らない事はありません。その間どんな改・補修修が施されたかという記録が残されていることは極めてまれです。

今、たまたまこういう形になっているけれど、創建時からそうだったという保証はありません。個々の部材や納まりに関しては、誰か応急処置として行った可能性の方が高いと思われます。正倉の棟を覆った銅版や、校倉の隙間の銅板は誰がいつ指示したのか、練りに練った改修計画に基くものなのだろうか、雨漏りで困って、とにかく緊急に対処したのだろうか。そしてどんな思いで施工したのだろうか。正倉院といえば校倉、荘重な正倉の校木の隙間に詰め込まれた石膏や銅板、青銅の丸環などを見ながらあれこれ想像が広がり、実に楽しい現場見学でした。

次回の見学会は3月15日(金)、16日(土)、17日(日)の3日間実施され、筆者も申込み済みです。 募集人数は240人、この中に入ることができれば、続報をお伝えします。

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